フェイスブックやツイッター、インスタグラムなどのSNSを利用する目的は一体何だろうか。
うーん・・・、さっぱり解らない。いや、解らないこともないこもないのかもしれない、とも言えるのかも知れない。言い換えれば、言えなくもないのかも知れない、とも言えるのではないか。
「人間は社会的な動物である」
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、哲学者の視点から人類を人類たらしめている特徴を表現してみせた。
今から約2400年前に表現した言葉の意味は、現代のそれと同じかどうかは私には分らないが、言葉通りに解釈しても今に通じるものがある。
「人間はひとりでは生きていけない。」
ドラえもんは、独裁スイッチを乱用したのび太に、深い教えを説いた。これは言葉以上に深い、と私は思う。
さて、フェイスブック上で、なぜ人は、ですます調で投稿するのか。まるで誰かに報告をしているようにも見える。多くの人が自分以外の不特定多数の人に対してなぜか、いろいろ報告している、報告しまくっている、互いに報告しまくりあっている世の中だ。
そしてそのひとつひとつの報告に対し、おなじみの、あのスイッチが用意されているのだ。人は他人の報告を受け、スイッチを押し合う。つまりそれで仲間だと。そして押されたら安心する。
人類全体でひとつの有機体ではないか思えてくる。
蟻や蜂はグループ全体で目的を果たすべく、個々が役割を認識して行動する。これらの現象は人間から見ると自然現象であり、自分たちのようにルールはこうしようね、私がこっちであなたはこっちを担当してね、と打ち合わせしたり、そのルールを気に入らない個がいたりしてうまくいかなかったり、最終的には戦争を起こしたり、という人間的な行動ではなく、風が吹いたり雨が降ったりする自然現象の一つとして捉えることができる。
これと同じように、人間のこのフェイスブックに投稿するという営みも、自然現象と捉えることができるのではないか。一見、無秩序に見えるこの人類の行動も、どこかに帰結するのではないか。で、その先はどこなのか。一体どこへ行こうとしているのだろうか。
ツイッターやインスタグラムに投稿する行為は少し異なる。もっと無秩序だ。報告というよりも、共有、つまりシェアしてみるけれど、投稿する個人は何が起きるか期待していない場合も多い。海の波のように、風が吹くように、ネットメディア上で、それぞれの個があらゆる方向に向かって叫ぶのだ。
こうなると、さらにさらに「人間全体で一つ生き物」と感じる。マイワシのトルネードのように。
しかしその中にも当然、個がある。全体と個。個は個性。尊重され、時に尊敬されるのは、個々がそれぞれ異なっているからだ。他者との違いを求め、現時点との違いを求め、とにかく他者とは違う状態に対する衝動が次代を創る。
違いを追い求め、しかし同時に他と同類であることに安心しつつ、今日もせっせとブログを書き、フェイスッブック、ツイッター、インスタグラムに投稿し、全体でトルネードの舞いを演じる人類。一つの生き物としての人類は、向かう先に何を見ているのだろうか。
人類がフェイスブックやツイッター、インスタグラムなどのSNSを利用するのは、一つの生物だからこそ、ツナガルこと、それ自体が目的なのかもしれない。何しろ意思疎通しなければまとまらないので・・・。
コメント